わたしはセッション提供の仕事と並行してライフワークとしてダンスの作品作りを行なっています(そのうちに皆さんにもシェアさせていただく機会が来るかもしれません)この作業は一人で行なっているため、自分は演出家でもあり振付家でもあり、ダンサーでもあることになります。そうなってきますと日々の訓練が欠かせません。
トレーニング
トレーニングとは「訓練」や「練習」といった意味ですが、これには多くの場合、繰り返し何かを行う行為が含まれると思います。わたしが個人的に日々のトレーニングで行うのはピラティスやその他の矯正運動とバレエですが、これは日々同じ動作を少しずつ矯正し、正しく動けるように筋肉を強靭にする作業です。わたしの場合はプロとして踊っていた頃から出産・子育てのブランクが20年くらいあるので、その間に培われた猫背姿勢や、元々弱かった股関節周りの筋肉、そしてブランクで著しく衰えた筋肉を強くする必要があります。
トレーニングではどれも一見、同じことを繰り返しているようですが、その実、毎度新しい発見があり、新しい結果が生まれます。つまり表層では単純な繰り返しに見えても深層では複雑な作業が行われています。毎回、新しい運動神経の回路が育っているということです。とはいえ新しく繋がる運動神経の回路が太くなり、無意識に使われるようになるためには、その回路を繰り返し使う必要があります。これが何かが出来るようになるということです。赤ちゃんがひたすらに寝返りの練習をする、あの状態を思い出してもらうとご理解いただけると思います。何度も何度も繰り返します。どうしたら出来て、どうしたら出来ないのか微調整をしながら継続します。そのうちに安定して出来る状態を手にすることができます。

その一方で、何かを繰り返し、結果何かができるようになるということは、無限にある可能性の中からいくつかが選択され他が捨てられるということでもあると思います。少なくとも、神経細胞がシナプスを形成する過程を例に挙げればそのようだと思います。
自由運動ーコンティニュアム
わたしの創作活動を支えてくれているものの中にトレーニングとは別に、もうひとつの方法というか、體と過ごす時間があります。コンティニュアムという自由運動です。
こちらはピラティスやバレエといった厳密で限定的な動き方を重んじるトレーニングとは反対の行為で、體が動きたいままに、呼吸のままに、ゆったりと自由に動いていきます。呼吸で自然と動いている横隔膜の動きに誘発されるように、全身の膜の繋がりが波打ち、ねじれ、解け、伸び、縮み。何の正解も不正解もなく、制限を緩め、呼吸する生物としての體の赴くまま、思考を休め、委ねます。
まだ文化を教え込まれる前の小さな子供は、脚を閉じて座ることもなければ、舌を口の中にしっかりと収めることもありません。常に波のように全身を動かしています。大変に可能性の開かれた状態であり、常にベストな状態に自己調整を行なっている状態です。大人になるにつれ、お行儀(文化の一部)を学び、社会的に正しい在り方を学ぶにつれ動作は限定され、これを我々は「洗練されている」と認識します。
わたしは文化を否定するわけでも、型を軽視するわけでもありません。重力が働いている地球で、物理的な重さのある體を機能的に存続させるためには型が必要なのだろうと今の段階では考えています。一方で、型のみを絶対としたときに型自体の質が落ちること、「今」を体現する創造的なプロセスである體の感受性が固くなり鈍くなることを自分の経験を通して、そしてクライアントさん方の動きを通して見てきていると思っています。わたしの場合はこれは、創造的な作業において最も顕著になります。コンティニュアムのような自然運動を通して自由さを取り戻し、大自然の一部として呼吸する體があるとき、作品を作るという、常に新しい状態である必要のある作業をすることが可能になります。何かに拘り、過去に囚われた體のままではなく、常に新しい状態が生み出されている自分と心地よくいられるということが、大変大切になってきます。


型と自由、制限と無限。この両方は両方でひとつであり、大切なのだと思います。